明治三陸大津波伝承碑

明治三陸大津波伝承碑

明治三陸大津波伝承碑

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明治三陸大津波伝承碑

 

明治29年6月15日(旧暦5月5日)午後8時7分頃襲来。
綾里村は被害戸数296戸 溺死1350人を数え、この地にて本州津波史上最高の38.2mの波高を記録する。
「白浜は真口の太平洋に直面せるをもって水勢を遮る何物もなきによるべく、野を越え山を走りて道合に至り両湾の海水連絡せるに至る。所謂水合か」 (「綾里村誌」)
〔綾里村の惨状〕
「綾里村の如きは死者は頭脳を砕き、或は手を抜き足を折り実に名状すべからず。
村役場は村長一人を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流出して片影を止めず」 (岩手県知事より内務大臣への報告)
「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。
晩暮帰潮に随って湾上に揚がるもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり子の骸を抱き慟哭するものあり、 多くは死体変化し、父子たも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。 頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり」 (「綾里村誌」)
平成10年6月15日
綾里地区消防100周年記念事業実行委員会 建立

「明治三陸大津波伝承碑の趣意」
この伝承碑は綾里地区消防の百周年を記念する事業の一つとして建立されたもので、 旧・綾里村に壊滅的被害をもたらした明治三陸大津波の惨状を永く後世に伝え、地域住民の戒めとするためのものである。 綾里村では二九六戸が流出・全・半壊した他、田畑の塩水冠水で、米、麦の収穫不能に陥り、また漁船一七五艘が流出・破壊され、鮪建網四ヶ統、鮪流し網二三反、鰯網五反、小魚網一三反も流出するなど、生活手段についても、壊滅的な害を被っている。 溺死一三五〇人は「綾里村誌」の記述によるもので長林寺の過去帳を基にしたもの。三八.二mの「波高」は、国立天文台編の「理科年表」によるものである。 白浜海岸と港湾方面を結ぶこの小峠の高さは三二mと地図に記載されている。 綾里湾から白浜海岸に進入し、南方の谷間を遡って来た津波が、この小峠げを越え、港湾から侵入して来た津波と連絡するに至ったというのである。 「所謂水合か」は、この辺は、昔から「みちあい」と呼ばれ、「道合」と書いていたが、本当は「みずあい」すなわち「水合」なのかも知れないということである。何故このような大被害になったのか? 元々、世界津波史上も稀に見る巨大津波であったうえ不意打ちをくったからである。 津波の三〇分ほど前にゆっくり長く揺れる地震を感じたが、震度は二~三程度の弱震に過ぎなかったため、これを津波の前兆と考えて警戒する者は一人としていなかった。 こうして人々は全く不意を突かれたのである。したがって揺れの大小にかかわらず「地震があったら津波の用心」というのが明治三陸大津波の最大の教訓である。 わが綾里は津波が駆け上がりやすく、したがって、被害も大きくなりやすい、いわば津波に弱い立地条件と地形をしていることを史実は示している。 顧みると、わが綾里では、明治の大津波の三七年後に襲って来た昭和八年の大津波でも一八〇人余が溺死する惨禍を被っている。 ここに立つ人々は、明治の大津波をはじめ、かつて、いく度となくわが郷土を廃墟と化し、瞬時にして幾多の命と財産を奪った津波の恐怖に思い致すとともに、 後々の世までその悲惨な歴史と教訓を伝えつづけ、老若男女の別なく、普段に、防災についての心をひきしめるようにと念願するものである。

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